「江戸連講:歌舞伎へのお誘い」

皆さんはよく歌舞伎にいらっしゃいますか? 私は20代の頃、一度だけ歌舞伎を見たことがあります。80代(?)の中村鴈治郎が八重垣姫を演じたのを見たのですが、直前に文楽で吉田蓑助の人形を観ていたこともあって、がっかりしたことが記憶に残っています。 それ以来、歌舞伎からは遠ざかっていました。 そして今月、江戸連の講で「歌舞伎への誘い」という講座をZOOMで受講しました。 歌舞伎の歴史や江戸三座のことなど初歩的なことですが、歌舞伎についていろいろと知ることができましたので、いくつかご紹介したいと思います。 (講師は元東京国際大学学長の荒井孝昌氏です)

①歌舞伎の由来は、鎌倉・室町時代に遡り、傾く→かぶく→かぶきとなり、勧進として寄付集めが行われていたようです。 その後、女芸人の出雲の阿国が現れて、かぶき踊りを創始し、このかぶき踊りから現在の歌舞伎が出来上がったことは教科書で学びましたよね。

②その後、女かぶきや若衆かぶきが禁止になりました。なぜ禁止になったのか分からなかったのですが、路上での簡単な舞台で踊りながら客引きをしたことが理由だったそうです。そのため、女と若衆が舞台に立てなくなって、野郎かぶきとなり、男役者が女形も演ずるようになったのです。 それにしても、客引きが禁止の理由だったなんて意外でした。

➂元禄の頃、上方と江戸で歌舞伎が発展しました。 上方歌舞伎がやわらかい写実的演技である和事(わごと)であったのに対して、江戸では荒ぶる超人的な力をもった主人公を演じる荒事(あらごと)だったそうです。 上方と江戸では本当に対照的だったのですね。

④寛永になると、江戸に猿若座(人形町)、市村座(人形町)、森田座(木挽町)、山村座(木挽町)が建てられました。しかしその後、絵島生島事件が起きて山村座が廃絶され、猿若座、市村座そして森田座が江戸三座となったそうです。 絵島生島事件では1500人もの関係者が処分されたというのですから驚きです。

⑤当時は、朝・昼・晩と3日がかりの市内観光を兼ての歌舞伎鑑賞をしたそうです。 また、芝居茶屋がとても繁盛していて、富裕層は豪華に、庶民は庶民なりに歌舞伎を楽しんでいたようです。 庶民向けの一番安い立見席は通称「追い込み席」といわれ、見えない、聞こえない席だったので「つんぼ桟敷」ともいわれたそうです。 「追い込み席」が出来るほど庶民も歌舞伎を楽しんでいた江戸時代は文化的にとても豊かな時代だったのですね。

◆今回の講では歌舞伎についていろいろ知ることができて、歌舞伎が身近に感じられました。
20代の頃、初めて就職した会社の先輩がとても古典芸能が好きで、今月は歌舞伎、来月は文楽、その次は能と狂言というように、毎月のように連れ回してもらいました。 最終的に、私は文楽の吉田蓑助さんに魅せられましたが、その後もいろいろな古典芸能に親しんでいたら、私はどのような大人になっていたのでしょうね。