「東京五輪と開会式」

2021年7月23日(金)東京五輪の開会式が、緊急事態発令中にもかかわらず開催されました。五輪開催について反対する人が多い中、議論されることなく強行されたという感情を抱いた人は多いのではないでしょうか。
「アンダーコントロール」から始まった今回の五輪ほど、オリンピックのあり方について多くの問題を提起したものはないのではないでしょうか。
そこで今回は、東京五輪と開会式に関してほんの一部ですが、その実相を知るためにお二人の声を紹介したいと思います。

浜矩子】「三つの無」(無知・無魂・無涙)を併せ持つ軍団が五輪開会式の醜聞を生んだ
◆日本人は本当に賢くて、本当に優しい。何かにつけてそう思う。だが、事あるごとに、日本人は本当に愚かで、本当に優しさに欠けるとも思う。 (中略)
激烈な女性蔑視ぶりを露呈し
た政治家。人気タレントの容姿を侮蔑することがショーアップにつながると思ったコピーライター。同級生いじめの「実績」を語ったミュージシャン。ユダヤ人大量虐殺をコントの題材にしたお笑い芸人。 なんとも、吐き気がするラインアップだ。
この人々に共通するものが三つある。 三つの無だ。無知・無魂・無涙である。
無知は人間を無神経にする。知るべきことを知らないままでいると、とんでもない形で他者を傷つけることになりかねない。 魂なき者には、無知の怖さがわからない。そして、自分の無知を恥じることを知らない。
涙なき者ほど、哀れな存在はない。他者のために流す涙を持ち合わせていない者たちには、自分の惨めさがわからない。もらい泣きすることができない。それほど悲しいことはない。
類は友を呼ぶとは、よく言ったものだ。 似た者同士がお互いを呼び寄せる。 この力学が濃密に働く中で、辞任・解任ラッシュにつながる演出チームができあがってしまったのだろう。
三つの無の「類友チーム」と、本当に賢くて本当に優しい日本人を一緒にしてはいけない。 両者は別種の人々だ有知・有魂・有涙の日本人は、無知・無魂・無涙の日本人よりも遥かに多いはずだ。 三つの有の人々の賢さと優しさが、三つの無の軍団の愚かさと優しさの欠如を抹殺してくれる。そうに違いない。
三つの有の日本人と、三つの無の日本人の最大の違いはどこにあるか。 それは、三つの有の日本人には、三つの無の日本人を哀れむ能力があるということだ。 三つの無からの解放。 三つの有の日本人は、そのために祈ることができる。 神よ、三つの無の日本人を救いたまえ。  (「AERA」 2021年8月2日 No.34)

【鎌田慧】東京五輪という装置
◆もはや「国民の命と健康を守る」などとは言わない。菅首相、開き直ったように「大会主催国として、世界の国々に対する義務を果たさなければならない」。東京五輪のスポンサー、米NBCのインタビューで語ったそうだ。
国内のコロナウイルス感染者よりも「世界四十億人以上の観戦者」が大事と、国威発揚に胸を張っている。 柔道選手が最初の金メダルを獲得すると、さっそく電話をかけて「多くの子どもや若者が夢をもらったと思う」と感謝する場面をNHKで流させた。まるで武功のあった軍人に、金鵄勲章を授与する気分だったのだろうと、とは私の想像である。
それにしても私たちの受信料で経営されているNHKのはしゃぎ過ぎは過剰だ。腹立だしい。 総合、Eテレ、BS1は朝から夜までニュースの時間も潰してゴリン、ゴリン。
開幕と同時に原発事故とコロナ感染、二重の緊急事態宣言下にある日本の状況を閉幕、生活困難な人達の悲惨を覆い隠す役割を果たしている。 民放も放送当番のような交代制で、午前九時から午前二時までゴリン、ゴリン。 東京では25日、1763人の感染者。(31日、4058人) 反対者は「反日だ」と安倍前首相が言い募った。 昔だったら非国民、と言いたかったのであろう。 いま辛うじて新聞が批判的な記事をだしている。 奮闘を期待しています。
(東京新聞「本音のコラム」 2021年7月27日)

◆ご感想はいかがでしたか? 多くの人たちが報道番組のインタビューに答えていましたが、一番心に残ったのは「オリンピックが大嫌いになりました。もう一生オリンピックを観るつもりはありません」と厳しい表情で答えていた病院の院長の言葉でした。 この病院長ほどではなくとも「オリンピックが嫌いになった」という人は多いのではないでしょうか。 また、「選手たちには罪はないので、応援したいと思います」という言葉も印象に残りました。
五輪憲章の「根本原則」は「オリンピズムとは、一つの生きる哲学である」という言葉から始まり、「オリンピズムは努力することの歓び、良き模範がもたらす教育的価値、社会的責任、そして普遍的で根源的な倫理的な諸規範に対する敬意に基づいた生き方を創造するすることをめざす」とその目標を謳っています。
「商業主義・拝金主義」にまみれ、国家主義的な面も見せている今の五輪は、憲章の目標からあまりにも隔たり過ぎています。 このままではオリンピックの存在意義はないのではないでしょうか。