「危機下でのリーダーとは」

師走も半ばとなり、今年も残すところ半月となりました。 例年ならクリスマスソングなどがあちこちから聞こえてくるのですが、今年は静かな年末年始になりそうです。
ところで、昨夜、政府がこれまでの方針を転換して、急転直下、GoToトラベルを全国一斉に一時停止することを発表しました。 これまでも政府の方針が二転三転し、自治体や官庁だけでなく、業者や国民も振り回されてきました。
そこで今回は、私も急遽テーマを変更して、「危機下でのリーダーとは」ということについて考えてみたいと思います。

【若き日の後藤新平と上司の児玉源太郎】
逆境の時にこそその人の真価が問われるといいますが、特にリーダーとしての資質がはっきりと目に見える形で評価されるのが各国の首脳たちです。 果たして日本の首相はどのように評価されるのでしょうか・・・・・。 私としては菅さんには残念ながら及第点を与えられないと思っています。
6月のブログで紹介した新型コロナウイルスの封じ込めに成功して高く評価されている女性首脳たちの例を挙げるまでもなく、かつて日本にも同じような状況下で感染拡大を水際で阻止した先人がいたのです。 そう、若き日の後藤新平です。

◆後藤新平は、明治・大正・昭和に活躍した傑出した政治家ですが、本日取り上げる舞台は、日清戦争が勝利に終わった1895年の春。後藤新平が37歳の時でした。
当時、中国からの凱旋兵たちにコレラ感染の疑いがありました。 「日本にコレラを広げてはならない!」と、23万人もの兵士を故郷に返さず、検査を実施したのです。
その全責任を負う臨時陸軍検疫部の事務官長として、白羽の矢を立てられたのが37歳の後藤新平だったのです。
◆後藤は、兵士たちを上陸させず停泊させ、大規模に検査できる施設を広島の似島に作る計画を立てました。 しかし当時、感染症に対する知識が乏しかった日本で、戦果を上げた兵士たちを病人扱いすることに国民や軍部から批判が相次ぎました。 強い反発の中、後藤の才覚を見い出し、全権委任したのは、当時、陸軍時間だった児玉源太郎だったのです。
◆そして、空前絶後といわれる、検疫作業が始まったのです。 今も残っている後藤が作った「検疫作業順序一覧」を見ると、船を横付けした後の感染者の動線の他、亡くなった人や快方に向かった人の場所などのフリーゾーンと汚染地帯が表されています。
また、犬猿の仲だった北里柴三郎と協力して最新のボイラー消毒器を開発し、検疫所内での感染を防ぐシステムを作り上げました。
さらに、後藤が大事にしたのは情報公開。 周辺住民のために施設を事前に公開し、1800人を招いて、コレラについて説明したというのです。
こうして、6月に始まった検疫作業。 後藤は3ヵ月で687隻、23万人の兵士の検査を行い、陽性者を隔離。 本土への感染拡大を水際で阻止することに成功したのです。
◆役目を終えた後藤は、上司にあたる陸軍次官の児玉源太郎を訪ねました。 その部屋には後藤を驚かせるものがありました。 そこにあったのは電報や手紙などが詰まった箱でした。「この箱は君の月桂冠だ」と児玉から渡された箱には、後藤に対する批難や批判が書かれた電報や手紙がいっぱい詰まっていたのです。
児玉は後藤の検疫を守るために、後藤への批難や批判を一手に引き受けていたのです。
また、後藤は感染を収束させるのに「いくらかかるか」と聞かれて、当時のお金で巨額の「100万円」と答えると、児玉は「それでは、150万円用意しよう」と答えたのです。 感染が広がったら。そんな程度のお金では済まないと、児玉は大局を掴んでいたのです。
◆後藤も児玉もドイツに留学して衛生学の基本を学んでいました。 そして、科学者としての冷静な判断の下に公衆衛生の基本を忠実に大規模に、そして迅速に行ったのです。

※ご感想はいかがでしたか? 危機下のリーダーには、やはり児玉源太郎のように振る舞ってほしいと願うのは私だけでしょうか。 また、為政者たちには、世界の成功例から学ぶだけでなく、歴史からも学び続ける姿勢を持っていてほしいと願うのは私だけでしょうか。
「国を滅ぼすのに武器はいらない。愚かな指導者が一人いるだけでよい」という言葉がふっと頭をよぎりました。
新しい年には、新型コロナが収束し、一日も早く世界中の人たちが平穏な日常を取り戻すことができまうよう祈りつつ・・・・・。

《引用資料》 BS-TBS開局20周年 記念番組 「報道1930 スペシャル」