「江戸のメインストリート『き代勝覧』を歩く」

今週の月曜日(9/28)、江戸のメインストリート『き代勝覧』(「き」が難しい字で変換できません)を歩いてきました。『き代勝覧』は、文化2年(1805年)の活気にあふれた日本橋のメインストリートを描いた絵巻で、レプリカは三越日本橋本店地下のコンコースで見ることができます。 絵巻に描かれているのは、神田今川橋から日本橋までおよそ7町(760メートル)の日本橋通りです。
これまでは日本橋に行っても三越や寝具の西川、山本海苔店など点や線でしか歩いたことがありませんでした。しかし今回は遺蹟を探しながら歩いたので、日本橋を面で理解できたような気がしました。
そこで今回は「江戸時代の日本橋」をご紹介します。

【『き代勝覧』】
◆「き代勝覧」とは、「輝ける御代の優れたる景観」という意味で、この絵巻には88軒の商店や通行する人1671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽が克明に描かれています。 この絵巻はドイツ人学者が知人宅の屋根裏で発見し、ベルリン東洋美術館に寄付されました。 複製は詳細な解説とともに東京メトロ三越前駅地下コンコースに設置されていますので、お近くにお越しの折はぜひ立ち寄ってみてください。

(手習い帰りの娘)
◆日本橋通りの裏店には、浪人者やそのお内儀が開く手習い所が多かった。商家の娘たちは読み書きで始まり、裁縫、三味線、お茶、お花、常磐津などをお師匠さんから習った。13歳・14歳で武家屋敷へ行儀見習いのご奉公。これが良縁を求める際、絶大な効力になったという。
(寺子屋入門の親子)
◆「おいら行くのやだよ」と腰が引ける子。寺子屋入門時には、机持参の習わしがあり、父親に買ってもらった机を死ぬまで使い続けた人もいたという。寺子屋に通い始めるのは6歳か8歳の「初午」の日。弁当持参も大流行だった。
(ご存じの「玉鮓」)
◆江戸時代、お寿司は屋台で食べるファーストフードでしたが、「玉鮓」(たまずし)は日本通りで初めて屋台から店を構えた翁屋庄兵衛の寿司屋。店で食べさせるというよりも仕出しが中心だった。
(江戸のコンビニ、商番屋)
◆間口の狭い安普請の木戸番小屋。木戸の開け閉め、捨て子の世話、火付け・盗人見張りなどが主な役目。町入用の運営のため安い給金だったので、お目こぼしで駄菓子屋雑貨の販売が許された。まさに江戸版コンビニですが、捨て子の世話もしたなんて今のコンビニ以上ですね!
(天下の豪商「三井越後屋」)
◆江戸随一の大店。銅葺きの雨樋に紅殻格子の店構え。駿河町通りを右側が呉服を扱う江戸本店。左側が京糸物や袈裟を扱う問屋。店先売りの現金決済で儲けた金を元手に両替商や幕府御用も。
(天下一の絶景、「日本橋」)
◆「日本橋」は、ひときわ高い太鼓橋。、見渡せるのは、江戸城、富士山といった江戸の絶景。橋桁にかかった小さな屋根は、風よけ雨よけの雨覆い、木橋をもたせるための工夫です。

※ご感想はいかがでしたか? 絵巻のほんの一部しかご紹介できませんでしたが、日本橋に行ったらぜひ絵巻『き代勝覧』をご覧ください。江戸の町とそこに生きる人々が身近に感じられて、215年前の大江戸にタイムスリップできることでしょう。